第65代天皇である花山天皇(かざんてんのう)は実在した人物ですが、たくさんの奇行で知られています。
また陰陽師・安倍晴明とも関わっていたようですが一体どんな関係だったのでしょうか。
そこで花山天皇のエピソードや安倍晴明との関係について調べましたのでご紹介します。
花山天皇のエピソード5選!
1.即位式で女官と性行為
花山天皇は968年に父の冷泉帝の第一皇子として生まれました。
984年16歳の頃に即位していますが、平安時代の説話集「水言鈔」には
花山院御即位之日。於大極殿高座上。
(略)先令犯馬内侍給之間。
と書かれており、即位式の日に対極殿の高御座(たかみくら)の中で馬内侍=文徳源氏時明の娘(女官)を襲って性行為したと書かれています。
高御座は即位式など大義のときにしか使われない神聖なところですが、そこでそんな行為しているとはやばい人だったのではないかと考えられます。
2.乳母子とその娘にも手を出す
花山天皇の性欲はとどまることを知らず、乳母の娘に手を出し妊娠させていますが、なんとその娘の子供にまで手を出し親子とも妊娠させています。
平安時代からそのような人がいたとは驚きです。
性欲強めの花山天皇の役を本郷奏多さんがやるとは面白いですね。
3.嫁が亡くなり悲しみに暮れて
花山天皇は多くの女御(天皇の寝所に侍した女官)がいましたが、中でも藤原為光の娘の藤原忯子の美貌に惹かれ必死に説得させています。
晴れて女御になり忯子は花山天皇の子を身籠りますが、忯子は出産中に帰らぬ人となってしまったようです。
当時18歳の花山天皇の身に忯子の死は辛く、周囲に出家したいと漏らしていたところ、花山天皇の失脚を狙う者が密かに動いていました。
4.藤原兼家にだまされて出家
藤原忯子の死に悲しむ花山天皇に、外孫の懐仁親王(後の一条天皇)を早く即位させたい藤原兼家は、自分の息子である道兼を使って出家を強く勧めさせます。
道兼は「出家されるなら私もお供します」と言って花山天皇に出家を決意させます。
出家の日、元慶寺に向かう途中に花山天皇は亡き妻からもらった手紙を忘れたと取りに戻ろうとしますが道兼は
すでに宝玉と宝剣(三種の神器のうちの2つ)
を次期天皇に渡してしまった
とせかして無理やり元慶寺に向かわせたんだとか。
元慶寺に着くと道兼は兼家に報告してくると言って寺を出て、戻ってこなかったことで花山天皇は騙されたと気づいたそうです。
在位2年ちょっとで退位におとしめられています。
5.花山天皇襲撃事件発生(長徳の変)
花山天皇は出家し熊野三山で真面目に修行をし心の平安を取り戻し暮らしていましたが、気分屋な性格で修行は長く続きません。
今度は忯子の妹(藤原為光の四女で藤原儼子)のところへ通うようになりました。
すると同じ屋敷に住む三女を愛していた関白の藤原伊周が三女に手を出していると勘違いして弟の隆家に相談し、隆家は武士を連れて花山天皇を襲撃しています。
花山天皇は袖を弓で射抜かれたものの大事には至っていませんが、これが藤原道長の耳に入ると藤原伊周とその弟は流刑の罪となりました。
これで道長はライバルを蹴落とし出世できたと言われています。
安倍晴明とのやばい関係とは?
花山天皇と陰陽師・安倍晴明は幼少期から外出の際は晴明による式神(陰陽師が使う鬼)により身を守ってもらうなどしてきました。
平安時代後期の歴史物語「大鏡」によると、花山天皇は出家の日、明るい昼間は人目につくので嫌だといい夜に家を出ることにしたそうです。
花山天皇が元慶寺に向かって歩いていると、ちょうど天体観測をしていた安倍晴明が、木星がてんびん座アルファ星に近づきつつあるのを見て凶となるのを確認しました。
これを受けて晴明は
すぐに式神一人、宮中へ参上せよ。
と言うと、花山天皇が晴明の家の前を通るのを見た式神が
今ここをお通りになられたようです
と伝え、出家をやめさせるのに間に合わなかったと伝えられています。
父親の冷泉帝も変態だった
花山天皇の性欲の強さは、父親の冷泉天皇(れいぜい)から受け継いでいる気もします。
冷泉天皇もとても奇行エピソードが多く、
・子供の頃、父である村上天皇への返事の手紙に男性性器を書いて出した
・住んでいた御所が火事になっても、避難する牛舎の中で大声で歌を歌っていた
・足が傷ついても一日中蹴鞠をしていた
気の病をもっていたといわれており、子の花山天皇に遺伝したのではないでしょうか。
花山天皇は政(まつりごと)はイマイチでしたが絵画や建築、和歌に関しては芸術的才能があったとされています。
41歳で悪性腫瘍でこの世を去ったとされています。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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