平安時代の公卿・藤原実資(ふじわらのさねすけ)と藤原道長ははとこの関係でした。
実資の博学で有能な人柄を道長も認めていたようですが、実際の仲はどんなものだったのでしょうか。
そこで藤原実資と道長の関係について実資が残した日記「小右記」の内容を調べましたのでご紹介します。
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藤原実資(さねすけ)プロフィール
藤原実資(ふじわらのさねすけ)は957年に藤原斉敏(なりとし)の三男として生まれています。
しかし祖父・実頼(さねより)の養子となり実頼の小野宮家を継ぎ領地を引き継ぐ資産家で、小右記という日記を書いたことでも有名です。
小野宮家は藤原氏の氏族の本家を継承する家系ですが、主導権を藤原兼家ら九条家に獲られていました。
実資は祖父の実頼に愛され、膨大な記録資料を与えられその管理や知識にすぐれた人だったと言われています。
実資には4人の妻がおり、婉子女王とは大恋愛したものの子供には恵まれず、妻も皆若くして亡くなられています。
晩年になって藤原千古(ちふる)が生まれ溺愛するも結局先に亡くなられ、世継ぎができないと焦っては手当たり次第女性に手を出していたようです。
藤原実資と道長の関係は不仲?
1.道長の娘の入内の和歌を断固拒否
実資(さねすけ)は道長より9歳上で、道長の政治のやり方に不満はあったものの紳士な対応でうまく対処していました。
しかし999年、道長の娘の彰子が一条天皇に入内が決まり、道長は調度品として屏風を作らせ、そこに公卿たちからの和歌を入れたいと依頼を受けました。
これには公卿だけでなく花山天皇さえも歌を送ったそうですが、実資だけは何度催促されても拒否しています。
実資いわく、「その屏風に歌をつくるなぞ、未だに前聞なし」と言っていたと書いてあり、ふざけるなと思っていたのかもしれません。
2.道長の和歌を小右記の日記に残すも
藤原道長といえば歴史の教科書にも載っているほど有名な歌があります。
此の世をば我が世とぞ思ふ望月の
かけたることも無しと思へば
これを現代語訳すると「この世は私のものだと思う。今夜の月のように私に欠けているところはないと思うから」という意味になります。
これは道長の三女が後一条天皇の后となったのを祝って開かれた宴のときです。
このころ道長は兄の死で関白のポジションを手に入れ、ライバルの伊周を蹴落とし思うがままの状態でした。
調子に乗って作った歌が上記の歌です。
この調子に乗った歌に返歌しろといわれた実資は、
あまりに素敵で返歌できません
と答え、結局道長の歌をみんなで歌うことにしたと小右記に書いてあります。
淡々とその日の状況が記されていますが道長の娘の入内で和歌を拒否しているくらいですから、この日記を書いたときもふざけるなと思っていたことでしょう。
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