平安時代の貴族・藤原伊周(これちか)は容姿端麗で摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男に生まれています。
良好な環境に育ちましたが、酒癖が悪く幼稚な性格が災いし大宰府へ流罪されるなど悲しい人生を送っています。
そこで藤原伊周はどんな性格だったのか、死因や最期のエピソードについて調べましたのでご紹介します。
藤原伊周プロフィール
藤原伊周(これちか)は974年に藤原道隆と高階成忠の娘・高階貴子の間に生まれました。
母の高階貴子は女房三十六歌仙にも数えられる歌人で、伊周に英才教育を受けさせたおかげで、伊周は漢詩が得意だったそうです。
985年に12歳で元服(成人)すると、すぐに従五位下の位を受けています。
その翌年に一条天皇が即位式の日に昇殿の許可がおりその後も毎年昇進していきました。
990年に父・道隆が兼家の跡をついで関白になり、自身の妹・定子が中宮となり、伊周はさらに出世していきます。
・991年→参議、従三位権中納言
・992年→正三位権大納言
・994年→内大臣
若くして出世しすぎたせいか、伊周はその後調子に乗って周りの反感を買うようになります。
藤原伊周の性格は幼稚なイケメン!
藤原伊周は21歳にして叔父の道長を超えて内大臣になると、異母兄(庶子)の藤原道頼へ官職を譲るなどと言った態度が反感を買うようになります。
学識や楽器の扱いはうまく顔も美男だったため、清少納言が「伊周ほどの貴公子はいない」と絶賛し枕草子を作るきっかけになったほどのイケメンだったとか。
女官からの評価はかなりよかったものの、大臣しか入ってはならない席に勝手に入ったりして上層部からの評価はよくなかったようです。
995年の年初めに父の道隆が糖尿病を悪化させると、伊周は一条天皇に「自分に関白の座を譲らせてほしい」と願いでましたが、許可は降りませんでした。
一条天皇の母・藤原詮子も伊周に対し良い印象を持たれず、道長を支持するような流れになってしまいます。
藤原伊周の過激なエピソード
995年の4月ごろ、父の道隆が糖尿病でなくなると、道隆の弟・道兼が関白に就任するも束の間、当時はやっていたはしかに罹り道兼は亡くなってしまいます。
次の後継者には伊周かと思われましたが、伊周の評判も悪かったことと道隆の妹で一条天皇の母・詮子からの猛プッシュで関白には道長が選ばれました。
伊周は納得ができず道長と大喧嘩したことがあり、また七条大路で道長の従者に伊周の従者が襲いかかり殺してしまう事件がありました。
また伊周は叔父に頼み陰陽師を使い道長に呪詛をしていたようで、これも悪い噂となり周囲に広まっていました。
極め付けは花山天皇の襲撃事件で、当時伊周は藤原為光の三女に通っていました。
そこに花山天皇も修行に飽きたのか四女のもとに通っていた姿を見た伊周は三女のもとへ通っていると勘違いし激昂します。
伊周は弟の隆家に相談し花山天皇の従者2人を殺してしまいます(長徳の変)。
太宰府へ流罪に
伊周と弟の隆家ら関係者は花山天皇の殺人未遂への罪で太宰府に流罪が決まりました。
妹の定子はなんとか兄弟の流罪はやめてほしいと願い出るも叶わず、ちょうど一条天皇との子を身籠もっていたそうですが頭を刈り上げ尼姿になることを決めます。
伊周の母はショックで病気にかかり、倒れてしまったそうです。
伊周は母のことが気に掛かり自分も病気になったと播磨国(兵庫県西部)に身を置き、半年ほどたってから妹の定子のもとへ身を潜めていたようです。
しかしすぐにバレて太宰府に送られると、母は亡くなっています。
最愛の妹が亡くなる
太宰府へ流罪後の伊周は大人しくしていたそうで、2年後の997年には道長の姉・詮子の病気平癒祈願のために大赦が決まり、京都に戻っています。
定子はその後も一条天皇の寵愛を受け999年には一条天皇の第一皇子・敦康親王が生まれています。
しかし敦康親王が生まれたその日に道長の娘・彰子が一条天皇の女御として入内しています。
一条天皇からの寵愛が道長のせいで阻まれる形となりましたが、その後も内親王を産み、すぐ亡くなってしまします。
出産をそばで見ていたという伊周は定子を抱き抱えて号泣していたそうです。
伊周の最期や死因は?
最愛の妹・定子を亡くし悲しみの伊周に、道長は同情したのか、一条天皇に復位を奏上するよう申し入れます。
一条天皇はこれを拒否しています。
しかし翌年末に回復しない詮子東三条院からも
伊周を元の位に戻すように
と言われ、一条天皇は伊周を復位させました。
その後道長の娘・彰子が敦成親王を出産し、彰子の父であり敦成親王の外祖父となる道長の権威は強まりました。
伊周のおば・高階光子が彰子と敦成親王に呪詛をかけた疑いで捉えられ、伊周の信頼はなかなか回復しません。
1001年1月、伊周は真の意味での復権が叶わぬまま原因不明の病で亡くなっています。
37歳でした。
皇后候補にすべく育てていた娘たちには
宮仕えなどして、親の名を汚さないように
との遺言を残しています。
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