大河ドラマ「光る君へ」では花山天皇は亡き妻・忯子の霊を鎮めるには出家するしかないと安倍晴明に告げられていました。
史実でも花山天皇は出家していますが忯子の霊を鎮める理由ではなかったようです。
そこで実際の花山天皇の出家理由や出家後も女好きで修行は続かなかったというのちの生活について調べましたのでご紹介します。
大河ドラマでの出家の経緯は
1.安倍晴明と家族ぐるみで陰謀
ドラマでは右大臣・兼家が倒れて昏睡状態が続いていました。
陰陽師・安倍晴明が兼家を訪ねると、兼家が倒れたのは花山天皇の亡き妻・忯子(よしこ)の霊が成仏できずに兼家に取り憑いているせいだと伝えられました。
花山天皇は道兼を嫌っており、安倍晴明からその話を聞くと「いいザマだ」と忯子に呪い殺されても構わない様子。
兼家が倒れたのは花山天皇の退位に向かわせるための演技で、安倍晴明と家族ぐるみで花山天皇を引きずり落とすための作り話でした。
兼家の次男・道兼は自分の体を傷つけ「父親にやられた」と花山天皇に見せると
父親からそのような仕打ちとは気の毒だ
と、兼家の次男は嫌いだったのにうまく距離を縮め相談相手として側近となることに成功しています。
2.忯子を成仏させるために出家を決意
父親から体罰を受けていると嘘をいい花山天皇と距離が近くなったある日、兼家が無事に目覚めたことを花山天皇は耳にします。
すると安倍晴明が忯子(よしこ)の霊が兼家を離れて内裏をさまよっており、忯子が成仏する方法は花山天皇が出家するしかないと伝えます。
それを聞いた花山天皇は出家の覚悟を決めると、そばにいた道兼も共に出家するという心強い言葉を聞きます。
花山天皇は明るい日中の時間に出家するのは周りの目が気になると夜にこっそり出ようとするも、忯子からの手紙を置いてきたことを思い出し戻ろうとします。
早く出家してほしい道兼は急かし立てて
もう次期天皇に神璽と宝剣を渡してしまいました
と寺への道を急がせ、花山天皇を見届けると自分は裏門から逃げてまもなく花山天皇は騙されたことに気づくのでした。
花山天皇の実際の出家理由は
花山天皇の出家の経緯は平安時代に書かれた「栄花物語」(作者不詳)に記載されています。
「栄花物語」によると、花山天皇は忯子が出産中に亡くなったあと、本当に落ち込んでいたようですが半年後に婉子(えんし)女王が入内しています。
花山天皇は婉子(えんし)女王にすぐに飽き、忯子を供養したいと出家しようかと急に思い立ったようです。
周りの人は花山天皇の飽きっぽい性格からして出家しても修行など続かないだろうと思う人もいたとか。
実際は忯子が亡くなってから1年後に思いつきで花山天皇が出家すると言い放ち、道兼がそこに付け込んで
出家なさるなら私もお供します
と嘘をついて出家まで付き添ったのは事実です。
夜に花山天皇がひっそりと出家しようとした直前、安倍晴明は星の動きで天皇が退位すると気づいたと言われています。
安倍晴明は式神(陰陽師が使う霊)を使わせ花山天皇の出家をやめようとするも、寺に着いてしまい間に合わなかったとか。
出家後も女好きは治らなかった
19歳で出家した花山天皇は、最初はいそしんで修行に励んでいたそうですが、29歳の時に忯子の妹で藤原儼子(藤原為光の四女)に通い出しています。
ちょうど藤原為光の三女のところへ通っていた藤原 伊周(これちか)は三女と誤解して弟の隆家に相談しています。
弟の隆家は家来を連れ花山天皇を襲撃し衣の袖を弓で射抜いたとされています。
花山天皇は従者の童子2人を殺されたとも言われており体裁も悪く黙っていたそうですが、周りにバレて伊周は左遷されています。
この襲撃事件は長徳の変と言われ、この事件のおかげで藤原道長はライバル伊周を蹴落とし出世したようです。
花山天皇の死因は
17歳で即位後たった2年で退位し政(まつりごと)はイマイチだったと言われる花山天皇ですが、絵画や和歌の才能はあったと言われています。
拾遺和歌集を編集し和歌を楽しんだと伝えられています。
41歳で悪性腫瘍によりこの世を去っています。
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