大河ドラマ「光る君へ」第一話でまひろの母・ちはやさんが衝撃的な亡くなり方をしています。
あまりにもかわいそうでショックな内容に本当なのか史実が気になりますね。
そこで「光る君へ」のまひろの母ちはやの死因は実際はどうだったのか調べましたのでご紹介します。
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【光る君へ】まひろの母・ちはやの死に方がひどい!
下級貴族のもとに生まれたまひろ(落井実結子)の幼少期の生活はかなり貧しかったようです。
無職の父・為時(岸谷五朗)のせいで屋根を直すこともできなければ、食料もないので母・ちはや(国仲涼子)が着物を売って生活していました。
為時がようやく官職にありつけるかもしれないということになり、まひろはちはやと祈願しにいった帰りで事件は起きます。
まひろは三郎との約束のために走り出して前にいた馬に乗った三郎の兄・道兼が落馬してしまいます。
怒った道兼はまひろを蹴り上げ、ちはやが止めに入りますが、短気な道兼は怒りがおさまりません。
道兼はちはやの背中に刀を刺し、まひろの目の前で殺されてしまうのでした。
まひろの母・ちはやの死因は史実は?
ちはやは史実では藤原為信女(ふじわらのためのぶのむすめ)とされ、正式な名は当時の女性は残さないのでわかっていません。
為時と結婚し長女と次女(まひろ)、長男を授かっていますが、3人産んでから体調が良くなかったようです(新潮日本古典集成、今井源衛「紫式部」)
まひろが3〜4歳のころに亡くなったとされており、産後の経過が悪かったためと言われています。
「光る君へ」の脚本を手がけるのはドラマ「セカンドバージン」や「家売るオンナ」などを書いた大石静さんです。
第一話でまひろの母が刀で切られて死ぬという衝撃の展開に台本を読んだ為時役の岸谷五朗さんは
大石さーん!
と叫んだと言います。
まひろの姉は大河ドラマに出てこない?
史実では、ちはやは3人の子供を産んだと伝えており、まひろには弟のほかに姉がいました(角田文衞より)。
ちはやの姉は藤原為時長女としか残っておらず、2歳ほど年上だったようです。
996年に為時の任官のために家族で越前国に赴いていますが、姉は同行していないのでおそらくそれ以前に天然痘で亡くなったとされています。
大河ドラマの相関図にはちはやの姉は描かれていませんが、これから出てくるのでしょうか・・
藤原道兼の性格が荒いのは史実か
ちはやを殺した藤原道兼ですがまひろの父にとっては官職をくれる権力者です。
まひろと道兼にはこの後何かが起きそうで怖いですね。
藤原道兼は平安時代後期の歴史物語「大鏡」や「栄花物語」で
容貌は悪く剛腹で片意地なところがあり偏執的な性格
と書かれています。
994年に右大臣に上り詰め、翌年には兄である道隆の代わりに関白に上り詰めるも就任して7日で天然痘にかかり病死しています。
享年35歳で七日関白と言われたとか・・
まひろの結婚生活はたった3年!
まひろは26歳くらいのとき藤原宣孝と結婚しています。
藤原宣孝は当時45〜47歳くらいで、すでに何人かの女性と結婚していて20歳くらいの息子もいたとか。
藤原宣孝からの求婚を避けるために996年には越前国に行ったのではないかともいわれるほどですが、宣孝が恋文を送りまくりついにまひろは結婚しています。
宣孝とのあいだには娘の賢子も生まれ、幸せな家庭を手に入れたのも束の間、宣孝は疫病で病死しています。
まひろは夫の死に悲しみ名作「源氏物語」を書いたのではと言われています。
ちなみに宣孝について清少納言が「枕草子」に批判した文章が残っています。
あはれなるもの、孝ある人の子。よき男の若きが御嶽精進したる。
枕草子第115段より
(中略)なほいみじき人と聞ゆれど、こよなくやつれてこそ詣づと知りたれ。
奈良県の金剛山(御嶽)に参る際には質素な身なりで行くものなのに宣孝は派手な格好で行ったそうで、
身分の高い男性が御嶽に精進している姿はよい。
よほど身分の高い人であっても御嶽には質素な格好で参るべきと聞くのに
と批判していました。
これを目にしたまひろ(紫式部)は少納言に感じ悪いと愚痴をこぼしていたようですが、複数の歴史学者によると紫式部と清少納言は文章を知っていても顔合わせしたことがないんだそうです。
大河ドラマで2人の関係はどのように描かれるのでしょうか、楽しみですね。
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